ウィットレス・シンキング
たわごとや無駄なことを、足りない脳みそで真剣に考える、無駄なブログ。
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創作する人間のあり方というか、何というか。
えー、ただいまテスト前のためいままで勉強していたのですが、気晴らしにイラストでも描こうかなと思ったのですが、
ペンタブはなんだかグレちゃって、GIMPはまだUbuntuのバージョンがアオサギ(8.04)のため、2.6になってくれません。こりゃさっさと野山羊さん(8.10)を捕まえないとダメかね?
というわけでこんばんは。まんじゅ(´ん`)です(茶目っ気いれて絵文字をいれてみたが……僕の柄じゃないなぁ)
さてね、そんなイラストを描くにしろ、ゲームを作るにしろ、小説を書くにしろ、最近考えてしまう事があったりするわけでして。
ペンタブはなんだかグレちゃって、GIMPはまだUbuntuのバージョンがアオサギ(8.04)のため、2.6になってくれません。こりゃさっさと野山羊さん(8.10)を捕まえないとダメかね?
というわけでこんばんは。まんじゅ(´ん`)です(茶目っ気いれて絵文字をいれてみたが……僕の柄じゃないなぁ)
さてね、そんなイラストを描くにしろ、ゲームを作るにしろ、小説を書くにしろ、最近考えてしまう事があったりするわけでして。
創作をする人というのは、常に進歩しようと志すのが普通だと思います。
その中に“他の作品を見習う”という事も入ってくると思います。そしてそれを見習うと言うことは、それに触れなければいけない物だと思います。
例えば、僕の場合だったら“小説" “漫画" “ゲーム" “音楽" まれに“デザイン"と、ほとんどが娯楽です。
ここで問題が発生。
最近娯楽が楽しめない……orz
特に“ゲーム"が妙に楽しく無かったりするのです。(一応漫画は気に入ってる物を立ち読みして済ませていますし、小説はもともと読まないので、楽しむ以前の問題で)
ゲームに関しては昔だったら、CMを見るだけで
「お! これ楽しそう」
とか思えたのですが、今じゃ人がプレイしているのを脇から見ていても昔は楽しめたのに、なんか物足りないというのか、どうも楽しめない。
自分で操作していないからというのもあるのかも知れませんが、これからゲームを作ろうと思っているのに“ゲームを楽しめない"というのは
“楽しいゲームというのがどういうものか理解できない"
という事になりかねないと思うわけです。
先ほど置いておいた小説に関しても、
「面白そうだなぁ」
と思う物が無かったりするわけで、なんだか損してる感じがしたり。ただ、もうライトノベルを読んでるような年じゃない様なと思ったり。でも書こうとしているのはラノベっぽいかも。という具合だったりします。
だけどそういう年頃とかって話じゃ、無いような気がするんだよなぁ。
そこで、ちょっと話を変えて
なぜ“ゲーム"や“小説"は楽しそうと思えないのに、“音楽"や“デザイン"は楽しめるのか
ということを考えてみました。
おそらく、娯楽(?)は
“無意識のうちに楽しむもの"
と
“意識して楽しむもの"
の2つに分けられるんじゃないかと思ったのです。
例えば、音楽やデザインはお店のBGMや広告用ポスターなどで、無意識のうちに感覚に作用し
「お、これはいいね」
と思ったりするのかと思います。
そしてゲームやアニメ、漫画や小説といった物は、まず手に取って、自分で感じて
「あ、これは面白いかも」
となる気がします。
だから僕が“楽しめなくなった"というのは、ある種の勇気を出して手に取らないからなのかなと思ったりするのです。ではなぜか。
おそらく僕はどうも“娯楽そのもの"を楽しむのではなく。“娯楽の中の芸術性"を楽しもうと思ってるから、楽しめていないのかなと思ったりしてます。
創作をする上でも、やはりオリジナリティ(またはユーモア)というのは必要です。しかし、他を受け入れないことには何がオリジナルなのか、何がユーモアなのかというのが分からないでしょうし、いままでの創作者たちも、まず習い、そしてそれを破り(越える意味じゃなくて、外れる意味で)、そして変化させる。そういったことをやってきたのではないのかなと。
そして、時には純粋にそれを楽しむということもしてきたのでは無いだろうか、そうして発想を豊にし、真の娯楽を彼らなりに理解し、皆が純粋に楽しめる作品を作れるのではないか。
と、僕なりに創作者の在り方(?)を考えました。
P.S.
なんかこんなことばっかり考えているから、
「理屈っぽい」
って言われるんかねぇorz
その中に“他の作品を見習う”という事も入ってくると思います。そしてそれを見習うと言うことは、それに触れなければいけない物だと思います。
例えば、僕の場合だったら“小説" “漫画" “ゲーム" “音楽" まれに“デザイン"と、ほとんどが娯楽です。
ここで問題が発生。
最近娯楽が楽しめない……orz
特に“ゲーム"が妙に楽しく無かったりするのです。(一応漫画は気に入ってる物を立ち読みして済ませていますし、小説はもともと読まないので、楽しむ以前の問題で)
ゲームに関しては昔だったら、CMを見るだけで
「お! これ楽しそう」
とか思えたのですが、今じゃ人がプレイしているのを脇から見ていても昔は楽しめたのに、なんか物足りないというのか、どうも楽しめない。
自分で操作していないからというのもあるのかも知れませんが、これからゲームを作ろうと思っているのに“ゲームを楽しめない"というのは
“楽しいゲームというのがどういうものか理解できない"
という事になりかねないと思うわけです。
先ほど置いておいた小説に関しても、
「面白そうだなぁ」
と思う物が無かったりするわけで、なんだか損してる感じがしたり。ただ、もうライトノベルを読んでるような年じゃない様なと思ったり。でも書こうとしているのはラノベっぽいかも。という具合だったりします。
だけどそういう年頃とかって話じゃ、無いような気がするんだよなぁ。
そこで、ちょっと話を変えて
なぜ“ゲーム"や“小説"は楽しそうと思えないのに、“音楽"や“デザイン"は楽しめるのか
ということを考えてみました。
おそらく、娯楽(?)は
“無意識のうちに楽しむもの"
と
“意識して楽しむもの"
の2つに分けられるんじゃないかと思ったのです。
例えば、音楽やデザインはお店のBGMや広告用ポスターなどで、無意識のうちに感覚に作用し
「お、これはいいね」
と思ったりするのかと思います。
そしてゲームやアニメ、漫画や小説といった物は、まず手に取って、自分で感じて
「あ、これは面白いかも」
となる気がします。
だから僕が“楽しめなくなった"というのは、ある種の勇気を出して手に取らないからなのかなと思ったりするのです。ではなぜか。
おそらく僕はどうも“娯楽そのもの"を楽しむのではなく。“娯楽の中の芸術性"を楽しもうと思ってるから、楽しめていないのかなと思ったりしてます。
創作をする上でも、やはりオリジナリティ(またはユーモア)というのは必要です。しかし、他を受け入れないことには何がオリジナルなのか、何がユーモアなのかというのが分からないでしょうし、いままでの創作者たちも、まず習い、そしてそれを破り(越える意味じゃなくて、外れる意味で)、そして変化させる。そういったことをやってきたのではないのかなと。
そして、時には純粋にそれを楽しむということもしてきたのでは無いだろうか、そうして発想を豊にし、真の娯楽を彼らなりに理解し、皆が純粋に楽しめる作品を作れるのではないか。
と、僕なりに創作者の在り方(?)を考えました。
P.S.
なんかこんなことばっかり考えているから、
「理屈っぽい」
って言われるんかねぇorz
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プロフィール
HN:
まんじゅ(´ん`)
年齢:
34
HP:
性別:
男性
誕生日:
1990/05/12
職業:
社会順応不良にまで堕ちた無職
趣味:
パソコン(おもにUbuntu)いじり、時々創作
自己紹介:
現世では人間の姿をしてるが、言葉は通じても話は通じない害畜。シーシャ(水タバコ)とオープンソースソフトウェアとTRPGの様な空想共有が好きなまんじゅう。 フリーソフトウェアで日常と創作活動と発信を行う事に日夜探求しすぎて社会順応も果たせない。
X68000は親父の背中だが、親父の振る舞いが許せない30歳のオコサマ・オツム。 ペシミストと言うには高貴すぎる愚息な悲観主義な発想とは自他共に認める所。
現世では人間の姿をしてるが、言葉は通じても話は通じない害畜。シーシャ(水タバコ)とオープンソースソフトウェアとTRPGの様な空想共有が好きなまんじゅう。 フリーソフトウェアで日常と創作活動と発信を行う事に日夜探求しすぎて社会順応も果たせない。
X68000は親父の背中だが、親父の振る舞いが許せない30歳のオコサマ・オツム。 ペシミストと言うには高貴すぎる愚息な悲観主義な発想とは自他共に認める所。
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